1. 「朝鮮鉱床論」の頃の文体や表記の変遷
昭和 19 年 (1944) 発行の土田定次郎の著書「朝鮮鉱床論 」やその参考文献の多くでは、明治期のような堅苦しい文体ではなく、(漢字が若干多めなのと旧字体が少し残っているものの)現代文と極端には変わらない文体で書かれています。しかし、それらを読み解くにあたって大正期から昭和初期にかけての地図や文献を調べる場合、当時の日本語の文体や表記の変化について、多少なりとも理解が必要になります。
2. 日本語の仮名遣い、字体、横書きの左右方向
仮名遣い、字体、横書きの左右方向などは、明治末期から昭和初期にかけて、大きく変化しました。
例えば 大正 7 年 (1918) 測図製版の 1 / 50,000 地形図、海州 1 号「黄州」(こうしゅう, 황주)では、地図のタイトルが「州黄」のように右から左へ書かれています。
同じ図幅の左下隅付近に見える「沙里院」(사리원)駅には「しやりゐん」と書かれています。小さい「ゃ」でなく大きい「や」と、現代表記では使われない「ゐ」が使われています。枠外の「京城」(경성)は現代なら「けいじょう」と ふりがなをするところですが、この地図では「けいじやう」と表記しています。
また、枠外の凡例では、「荷車ヲ通セサル部」のような濁点の無いカナ表記と古い表現や、「官廰」(現代では官庁)「三角點」(現代では三角点)のような旧字体も使われています。
あるいは資料によっては、 昭和 10 年 (1935) の「朝鮮稼行鉱山分布図」のように、下地にした地図の地名は「右から左」なのに鉱山名は「左から右」、というように混在したものもあります。
地名の表記や発音も変化しました。近年では、現地で漢字よりもハングル/チョソングルの使用比率が高くなったことも影響しているのか、日本でも例えば「京畿道」を「キョンギド」のように現地発音に近づけて表記(音写)したり発声することがあります。定次郎の時代には(特別の状況を除いて)「けいきどう」のように日本語の音読みをしていました。ただし、大正期の地形図の枠内では、駅名を除くほとんどの地名が現地発音に近づけて表記されているように見えます。例えば街の名「沙里院」には「サリヲン」というカナがふられています。
3. 新旧日本語と多国語の対訳データベースの必要性と構想
このように定次郎の「朝鮮鉱床論」の頃は、日本語だけに限っても様々な要素が変化しました。当時を知る世代の人たち、つまり 旧字体、旧仮名遣い、右から左、くずし字、旧度量衡、などが日常だった人たちは、古い文献をスラスラと読んでいました。しかし、近年では そのような人口が減り、日本人でも多くの人が古い文献の読解に苦労しそうです。日本語が母語でないかたにとっては なおさらのことで、これらの変化が、読解の障壁となるはずです。
このような不便さを多少なりとも解消するために、地名だけでも文字、読み仮名などの新旧日本語+ハングル/チョソングル+英語の対訳表が整備されると便利かもしれません。現代では、地名辞典の類が紙媒体やオンラインで提供されている例もありますが、年次など頻繁な変更に対応するためか、多くは有償です。そのような現代の地名と比べれば、大正期の「朝鮮五万分一地形図」のように改版が停止した資料に現れる地名はデータベース化し易そうです。しかし、図幅数は 722 枚ほどあり、町、洞、里 の数は 昭和 18 年 (1943) 10 月 1 日時点で 28,609 もあるので、たとえ地名の読みかたの典拠となる資料(行政区画便覧や地図帳索引など)が揃ったとしても、そのデータベース化には相応の手間がかかりそうです。そもそも、722 枚全ての題名の日本語読み(読み仮名)すら特定が難しそうに見えます。例えば、最北端の図幅、鍾城 2 号「柔遠鎭」の読みかたは、資料によって「じゅうおんちん」「ゆおんちん」のように ゆれ があり、私 TK は特定できていません。
下記は想定されるデータベースの出力です(実在しません)。「沙里院」を例にしています。このように、たった一つの地名であっても、時間や典拠ごとに、新旧日本語、他のいくつかの言語などが複数個ずつ関連するので、データベースを設計する上で、境界(収録範囲)をどこに設けるか、さらに それを どのような計画で拡張していくかが課題となりそうです。
新旧日本語+複数言語の対訳データベース、出力例(構想のみ。実在しません。)
項目 항목 Item | 値 값 Value |
---|---|
日本の漢字表記(新字体) 일본의 한자 표기(신자체) Japanese Kanji (simplified modern form) |
沙里院 |
種類/유형/type *1 | PL |
当時の行政区画 당시 행정구획 Administrative district at that time |
黄海道 鳳山郡 沙院面 (1914-1921) 黄海道 鳳山郡 沙里院面 (1921-1931) 黄海道 鳳山郡 沙里院邑 (1931-1945) |
1/50,000 地形図 1/50,000 지형도 1/50,000 Topographic map |
海州 1 号「黄州」(from N38°30' E125°45', Stanford=BEE-1), 海州 5 号「沙里院」(from N38°30' E125°30', Stanford=BEE-5) |
RR式ローマ字 국어의 로마자 표기법 Revised Romanization of Korean (2000) |
Sariwon |
MR式ローマ字 매큔-라이샤워 표기법 McCune–Reischauer romanization |
Sariwŏn |
ハングル/チョソングル 한글/조선글 Hangul/Chosŏn'gŭl |
사리원 |
漢字の読みの例(ひらがな, 現代) 한자 읽기를위한 일본 음절 (히라가나, 현대) 의 예 Examples of Japanese syllabary (Hiragana, modern) for the Kanji reading |
さりいん, しゃりいん |
漢字の読みの例(日本語ローマ字, 現代) 한자 읽기를위한 일본 음절 (로마자 표기, 현대) 의 예 Examples of Japanese syllabary (romanization, modern) for the Kanji reading *2 |
Sariin, Shariin, Syariin |
当時の資料でのカタカナ/ひらがなの例 당시 문서에 나오는 가타카나/히라가나 의예 Examples of Katakana/hiragana in the documents at that time *2 |
しやりゐん (TM1/50K) |
原語発音に近づけたカタカナ表記の例 원래 발음에 가까운 가타카나 표기법의 예 Examples of Japanese Katakana notation closer to the original pronunciation *2 |
サリヲン (TM1/50K), シャリイン (AD1939, AD1940, AD1941, AD1943), サリウォン(OT) |
その他の英語表記 기타 영어 표기 Other English notations |
|
備考 비고 Notes |
*1 種類コード/유형 코드./type code:
- PS=人/사람/person
- PL=場所/장소/place
- PD=時代/시대/period
- AD=行政区画/행정구역/Administrative district
- GE=地学用語/지질학 용어/Geological terminology
- OT=その他/다른/others
*2 資料コード/문서 코드/document code:
- TM=朝鮮総督府(1910s-1920s)地形図/지형도/Sōtokufu(1910s-1920s)topographical maps
- KK=小藤・金沢(1903)羅馬字索引朝鮮地名字彙/Kotō・Kanazawa(1903)A Catalogue of the Romanized Geographical Names of Korea
- GM=小藤(1903)朝鮮全図/Kotō(1903)General Map of Korea
- GGM=朝鮮総督府(1928)朝鮮地質総図/Sōtokufu(1928)General Geological Map of Chosen (Korea)
- AD=行政区画便覧/행정 구획 편람/Administrative district handbook
- OT=その他/다른/others